猪瀬都知事のつたない英語でのつぶやきが波紋を広げているが,どう考えたときに「恥ずかしい」もので,どう考えれば「恥ずかしくない」ものなのかを少し考えてみたい.基本的に何かに対して評価をする際には,それがどのような目的で行われているかを考えることが大事である.

猪瀬さんの英語を恥ずかしがる人が恥ずかしい件

例えば,今回のつぶやきが英語のテストであった場合には,おそらくバツがつくことだろう.猪瀬都知事の英語は文法的な間違いが存在しているためである.また,これが国を代表したスピーチ,もしくは著名なスピーチコンテストの原稿だったらどうだろうか.それも,おそらくバツがつくだろう.単語も平易で人の心を揺さぶるような言い回しをしていない.

では,このつぶやきはどのような目的でつぶやかれたのだろうか?個人的な感覚ではカタコトの日本語で「コンニチハ,ニホンダイスキデス!」などと,ハリウッドスターが笑顔で答えるのに近い.こういう目的であれば,発音もつたないし文法だっておろそかだが,ファンでなくてもほほえましい気持ちになる.よってマルだと言えるだろう.

このように,どんな状況でどんな目的で行われたかによって,評価は大きく変わってしまう.もちろん私には世界の人々がどう捉えるか,評価するかを知る術はない.しかし,そういった評価が出る以前に,前もって周囲の日本人が「恥じだ!」とわざわざ声高に叫ぶほどのことではない,ぐらいのことはわかる.

世の中を見渡すまでもなく,立場の違いや勘違いによって日々論争が起こっており,人々はすり減っている.私が幼少の頃は「相手の立場になって考えなさい」と大人から良く聞かされたものだが,できている大人は意外と少ないのかもしれない.